平成18年11月29日、塩沢の牧之記念館学芸員貝瀬香さんより電話があって、明日鈴木牧之の「秋山記行」の写本を手に入れたという人が記念館に来るので、来られないかという。
「秋山記行」は、文政13年(1830)江戸の十返舎一九の勧めで、牧之が秘境秋山郷を訪ねた紀行文である。この冬豪雪で孤立したというニュースが報道されたところである。天保二年、牧之は、この紀行文を書き終えて、江戸の一九に送ったが、一九の死によって未刊のままになった。この「秋山記行」が刊行されたのは、昭和7年長岡の今泉鐸次郎氏の『越佐叢書』第5巻だった。この牧之が一九に送った本には2種類あり、一本は牧之が秋山で見た暮しの様子をありのままに書いた「実録記行」と呼ばれるもので、もう一本はこれをフィクションを交えて小説化した「戯作秋山記行」とよばれるものだった。
「実録記行」の原本は、小千谷市の山本清氏の所蔵であり、昭和39年信濃教育会刊行本、昭和46年刊行の平凡社東洋文庫本、などすべてこの本によっている。この実録本「秋山記行」には、活字化される前にいままで、3本の筆写本は知られている。このことは、拙著「座右の鈴木牧之」 197頁に書いている。
さて、翌30日、牧之記念館で、この本を手に入れたという長野県篠ノ井市在住の寺沢正直氏と父上の寺沢泰氏にお会いした。頂いた寺沢正直氏の名刺には「筑波大学図書館情報メディア研究科博士課程」と肩書きされていた。表紙は、越後縮の絣が張られて、題簽は、取れてなかった。牧之記念館にある、写本「秋山記行」は、村山本とよばれ、旧高柳町村山家に所蔵され、この記念館に寄託されていたものだった。これも表紙は同じ絣の模様がついた縮布だった。驚いたことに、筆跡も行数、一行の文字数ともに、中の挿絵とも同じだった。つまりは、村山本を筆写した人が同じ本を2冊作っていたということである。そして巻末に
知人同國長岡出身酒井嘉七君此書を携來して余に表書を需む余未だ學徳才の成らざるを以て辞すれども許されず鈴木先生は余の尊崇する所なり故に厚顔之を書せり不遜の罪幸に恕せよ
昭和拾参年五月弐拾日誕生日
高頭仁兵衛藤原 義明謹書
時六拾貳叟 花押
という文字が書かれていた。高頭仁兵衛は、長岡市深沢出身の富豪、日本山岳会生みの親である。酒井嘉七は古書店一誠堂の関係者である。してみると、この写本はこの頃東京に出ていたことになる。
故熊木貞夫氏所蔵の「秋山記行」写本について、生前熊木氏は、筆跡が村山本と同じと言っておられた。この新しい写本と精細に熊木本とを比較する機会を得ていないが、もしこれも同じ筆跡とすると、この筆写した人は、3本を筆写したことになる。いったいこの筆写者は、誰なのか。
この写本所持者、東京の串田孫一氏も、そして熊木貞夫氏も故人となり、この写本の行方が心配される。
「秋山記行」写本
寺沢正直所蔵本 冒頭部分
筆跡
06.11.30 牧之記念館にて撮影 画像拡大
「秋山記行」写本巻末書き込み
寺沢正直所蔵本
06.11.30 牧之記念館にて撮影 画像拡大
■■■ [エッセイ] 私の「北越雪譜」半世紀 はこちらから ■■■
〒949-5332
新潟県長岡市小国町
上岩田524-1
TEL:0258-95-2340
FAX:電話と同じ
E-メール: